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明治・現代の七宝

      

日本の七宝歴史

明治・現代の七宝

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☆明治・現代の七宝☆

明治・現代の七宝

明治七宝は七宝の全盛期であり、商品を大量に生産し始めた時期であります。名古屋の安藤七宝店や京都の稲葉七宝店(現在はありません)が、名古屋などに下職をかかえ、生産に力を入れ、当時の七宝は分業製で図案の決定・生地作り・下絵付け・銀植線・釉薬色付け焼成・覆輪付け・完成などを各個人の家で行われて、現在みたいに1店舗で全てを行う事はありませんでした。そして、出来上がった製品を上記のお店が買い上げていました。七宝の製作は農閑期に行われていた時期もありました。

 その中で、幕末に活躍した七宝氏は梶常吉であり、明治初期に七宝は日本の輸出商品の代表品となりました。梶常吉は一子相伝をせずに、色々な人々に七宝を伝授し各方面に広げました。オランダ渡りの七宝皿を研究して製法を発見、現在の尾張七宝(有線七宝)の基礎を作りました。梶常吉の七宝技法はこうして、林庄五郎に伝えられ、それからさらに塚本貝助に伝えられました。しかし、釉薬については秘伝とされ、伝えられませんでした。
 そこで、塚本貝助は、師である庄五郎が買い求める薬品を探して市中を訪ね歩いて、終にそれが、青色ガラスである事を突き止めたといわれています。
 その後、貝助は東京のアーレンス商会の七宝工場の工場長として招かれ、そこでドイツ人科学者ワグネルと共に七宝釉薬の改良に努力したのです。七宝が今日のように光沢のある透明釉薬を使った、華やかなものとなったのは、これから以後です。精緻で華麗な七宝を生み出す名工が輩出、万博などを通じて世界を驚かせ絶賛を浴びる日本の七宝が誕生することになります。

 明治期の作家としては、濤川惣助と並川靖之が上げられます。濤川惣助(1847〜1910)は明治20年(1887)に実用化に成功した無線七宝の技法は金属線なしで図柄を表す画期的なものであり、日本画の図様を七宝に生かせた第一人者であります。明治14年に開かれた第二回勧業博覧会に作品を出品し、見事、名誉金牌を受けたのです。その作品は、従来の技術を上回る無線七宝と、更に濃淡の発色を可能にした美しい焼物であったそうです。惣助はその2年後、アムステルダムで開かれた万国博覧会、更に明治18年のロンドン万国博覧会に出品してそれぞれ金牌を受けたのです。そして同22年のパリ万国博覧会では名誉大賞を受賞することになり、濤川惣助の名声は世界中に広まることになったのです。国内においても翌23年の第三回勧業博で遂に名誉褒賞を手にした惣助は、明治28年に緑綬褒章を受け、翌29年には七宝焼を通し国の内外に日本工芸品の優秀性を示したとして帝室技芸員に任命されたのです。明治43年2月9日、濤川惣助は64歳で没しましたが、生涯の仕事の集大成として迎賓館に多くの作品を残しました。それらの作品は、大食堂に30面、小食堂に2面、計32面の七宝壁飾額が飾られていますが、それらの評価は「有無線七宝焼の技術が、遺憾なく発揮されている」といわれています。
 また、並川靖之(1845〜1927)は名古屋の塚本貝助の弟子、桃井英介によって伝えられた七宝技法を習得し、細密な有線七宝技法による華やかな図柄を得意とし黒地釉薬に写実的に花・草木・小鳥の姿を鮮やかに浮かび上がらせる効果を得意としていました。万国博覧会等で数々の賞を受賞し、明治29年にはこれらの功績により帝室技術員に任ぜられました。

 上記の写真は左が並川靖之作(藤と蝶文花瓶)右が濤川惣助作(月に薊文盆)です。2点共、昇仙峡ロープウェイ七宝美術館所蔵です。